「誰とでも××できる」ということ

××という欲求を持つ人は「誰とでも××できる」という人間に対して賞賛を送り、あまつさえ自分がその対象であると喜ぶ場合がある。

 

しかし、その態度は大きな誤りであることを伝えたい。

 

まず、一つ目に、その人が「可能」であると意思表示したからといって、当該の行動・言動を「希望」するかというのは別問題である。

つまり、あなたが「対象」であるかどうかは分からないということだ。フリーハグ運動でもしない限り、ハグしてもらえるかどうか、可能という次元で語っている場合、判断は不可能である。

また、あなたと××という行動を「希望」するかどうかも、その時、発言した本人が希望しているかも、判別はできない。

 

前後の文脈にもよるが、そのような感情の快不快に基づかない合理的な言動をする人間性のある人物が「欲望」を満たすために発言しているとは考えにくい。直接あるいは間接的にしろ、自分のしたいと思うことを伝えそうである。ただし、個人差があることは認める。

しかし、なるべく自分に都合よく空気を読まないことを推奨する。

 

二つ目に、その態度に賞賛を送るのは、自分の欲望を満たすための基準を周囲に押し付ける、プレッシャーを発するということである。

そのように個人の行動をコントロールするような意見を発するのは、人権意識がやや欠けているように感じられる。

いわゆる、どの口が言っているんだ、ということである。勝手な自分の物差しで相手の価値を判断するのは無礼にあたるということだ。

 

以上、勝手に都合よく期待して舞い上がってんじゃねえ!のコーナーでした。

あなかしこ。