エビデンスの辞書的な意味を再考する

エビデンスは「根拠」であるとして、フェミの人が主観的証言を「無意味」であるとするボヤ騒ぎが起きている。

 

もともと「ツイッターで考え方が変わった例として自分がいる」という「証拠」として「私がエビデンス」であるという発信から、徐々に性差別の体験談を語る流れに移行しつつあった際に、女性の権利を掲げるフェミ系アルファツイッタラーが否定し、議論(リプライの応酬)が続いているというような状況だ。

この流れのまとめはあくまで私の印象であり、語弊がある可能性が高いため、以下にまとめのリンクを貼る。

実際のやり取りから受ける印象については、個々人にお任せする。

 

togetter.com

 

ほのぼのした空気は一転、血で血を洗う雰囲気がそこはかとなく漂っている。

独断と偏見による主観的な個人の感想を言わせていただくと、フェミニストは新旧どちらも絶対に意見を折らない正義感が怖い。すみません。ごめんなさい。

 

ちなみに、私は人間の尊厳と個人が幸福を追求する権利に対して疑問を抱かないし、人権を大事にしていきたい考え方の持ち主であるが、特別フェミニストを標榜していないし、それら主張に対して何らかの意見をここで表明するつもりはない。

さて、前置きが長くなったが、エビデンスというものの使われ方が、どうにも狭義の意味しか語られていないことに私は非常に違和感を覚えた。

 

なぜ誰も辞書を引かない。

どうして誰も、各々の業界で用語の使われ方に差異があることを語らないのだろう。

 

使えるとカッコイイ?エビデンスの意味と実際に使うシーン

こちらでは「証拠」「形跡」「証言」がエビデンスであるとし、用途が具体的に示され、論文・プルーフ・ソースとの意味の差が説明されている。

 

https://afun7.com/archives/2581.html

また、こちらでは業界別にどのような意味合いで使われているか紹介されている。

 

エビデンスは「根拠となるもの」としての概念の広さゆえ、便利に使われているような気がする。

 

では、辞書を引こう。

kotobank.jp

 

証拠、証言、科学的根拠。

単語の定義上は、これらがエビデンスの意味である。

 

アルファたちが指摘しているのは「科学的根拠」での意味合いで「誤用」であると指摘しているものと推察する。なるほど、その視点においては間違いないだろう。

しかしながら、おそらく、主観的エビデンスを主張する人たちは「証言」という意味合いで言葉を使っている。こちらも間違いではない。

 

学術的な狭義の意味しか認めないとするならば、裁判において「証人の証言」は無効であるということになってしまう。

私個人としては、主観的証言もエビデンスと表現可能であると思う。性差別の経験や個々人が体験した記憶を「無」としてしまうのは、少々行き過ぎではないだろうか。

 

エビデンスには「証言」という意味があるのである。

辞書の定義をリンクする。

 

kotobank.jp

確かに証言はお取扱い注意の代物ではあるのだが、エビデンスが証言という意味を含むなら、主観的な語りはやはりエビデンスの定義の範疇であると思われる。

主観的な語りが無意味であるとするならば、例えば現象学は個々人の感じ方自体が重要とされるが、その分野自体が無になってしまわないだろうか。あるいは、オーラルヒストリーの意義も無くなってしまわないだろうか。

 

ただし、ここで認める「エビデンス」の意味は「フェミニズム」という枠組みの範疇から距離を置いた場合である。フェミニズムが規定するエビデンスの定義があるならば、それが定義であることに疑いはない。

前提を共有しないまま「違う、違う」と言いあっても、議論は永遠に平行線だ。なぜなら、同じ世界線で会話をしていないからである。

パラレルワールド(A)のルールを(B)のルールに当てはめようとしても無駄である。

 

まず、あのタグは何に対して「エビデンス」だと言っているのだろうか。共通認識がないままに各々が好き勝手に使っているから混乱が起きているのではないだろうか。

(しかし、ツイッター自体、そういうツールだろう。つくづく議論に向いてない媒体だと思う。)

どういう意味・背景で使用しているかによって、正誤が変わってしまう危うさを感じる。冷静さを欠いていくにつれて、正義のマウント合戦になりかねない一触即発な空気も。

個別に文脈を見る必要があるので、全体的に一番最初の発信源を精査せずに議論を始めてしまうのは早計ではなかろうか。

互いに理解をあきらめ、新しい溝が生まれていくのを見ていると、本当に悲しくなる。

 

また、女性のエンパワメントという点で、被害の声を上げ始めた動きを学術的ではないからと消してしまうのは、彼女たちの存在としての尊厳を取り戻すという点で賛同できない。そういう感情で、支援者側の団体は定義の誤用に賛同したんだろう。

www.weblio.jp

トーンポリシングでも言われるように、感情は無視してはいけないトピックである。感情が生み出される現実は確かに存在している。あくまで個々人が「痛み」を訴えている場合は、それが証明可能かどうかというのは、この時点では、一度置いておいてほしい。話を聞いてほしい悲鳴なのか、社会運動の抗議の声か、渾然一体となっていたら、ぜひとも知性で仕分ける方法を示してあげてくれ。

彼女たちはやっと声を取り戻しつつあるのに、揚げ足をとって意志を潰すようなことをするから、新フェミのみなさん、反フェミだなんだと言われてしまうのではないか。

 

いったい、みんな何と戦っているのだろう。

思想を掲げる人は、理論上の女性の権利を主張するよりも前に、社会に存在する大きなエネルギーをはらんだ生身の声を正しい方向というものに導いてはいかがだろうか。

冷徹な正論で踏み潰す前に、センシティブな怒りを抱いている彼女たちに、きちんとわかりやすく武器を提供してあげてはいかがだろうか。

女性はいま、現実に生きている。そして、生きている女性の尊厳を取り戻すために、権利は必要なのではないだろうか。

同族で戦う必要はないはずなのに、どうして争いが起こっているのか不思議で仕方ないのだ。純粋に困惑している。

 

最後に、用例がたくさんあって参考にはなるが、情報のソースとしては信頼できないことで有名なWikipediaのリンクを貼っておしまいにする。

エビデンス - Wikipedia

 

お願いだから、ラブ&ピース!!!!!!!